この騒動は、「コロナ禍」という言葉で表現されているようです。
「禍」はこの場合「か」と読み、「ころなか」と言うそうです。
「禍」は「わざわい」なので、表現としてはしっくりきますね。
さて、日本では緊急事態宣言が全国区になり、感染者数も増え続けています。
この状況に、人の心も荒んできている気がします。
他人の行動に敏感になり、他人を非難することで、自分の意志や行動を肯定化している人も多いようです。
物事に対する日本人の真面目で従順な面を、改めてこのコロナ禍で垣間見ている気がします。
ここで、多くの人が勘違いをしているだろうと思われる3つのワードについて解説してみたいと思います。
ー命ー
ワイドショーはともかく、NHKのニュース番組の最後にアナウンサーが、「命を守る行動を」と締めくくっていることには違和感を覚えました。
小池都知事もそのような表現をされます。
震災のときに、よく耳にしたフレーズです。
果たして今は、あの震災の時と同じなのか?
命からがら逃げなくてはいけないあの状況とは、あまりにもかけ離れているのではないでしょうか。
「感染」=「死」を連想させてしまうのはいかがなものかと。
行動自粛を促そうとするばかりに、このような印象操作をすれば、真面目な国民はますます追い込まれることになります。
「感染」=「死」ではありません。
命、命と連呼する必要はないのです。
感染のほとんどが軽症であり、重症化する人は高齢者や持病のある方というのは、世界中でほぼ同一となっているはずです。
子どもたちの休校措置についても、これはもともと免疫力の弱い高齢者を守るためのものでした。
小中学生の感染はあっても、死亡という情報は未だ聞いたことはありません。
休校措置はすなわち高齢者の命を守るためであり、大々的に子どもの命を守るためではないのです。
ー自粛ー
自粛する目的は、人の動きを完全に止めるためのものではありません。
ロックダウンしている都市でさえ、人の動きはゼロではないのです。
たとえば食料品の工場であったり、物流であったり、医療・介護関係であったりは、絶対に動きを止めるわけにはいきません。
一般市民の日常生活でも同じです。
食料品や日用品の買い出し、学童保育や保育園へ子どもを預ける、公園へ行く、自治会の最小限のやり取りをするなど、動きは必ずあります。
となると、自粛はあくまでも、人や物の流れを完全に止めるためではなく、人の流れを緩やかにするためのものです。
ゼロにするのは不可能であることをわかろうとしない人々は、許せないと感じる場面に目くじらを立てては、精神的に自分をも追い込んでいます。
ここまで世界中で感染者が発生している中、どこまで抵抗できるのかという状況を冷静に見てほしいと思います。
自粛の目的は、この場合緩やかな感染を意味しています。
人が行動を制限すれば、クラスター的な感染ではなく、ゆっくりと感染が広まります。
自粛の最終の目的は、医療現場を崩壊させないためだということに気づかなければいけません。
自粛は、人々の感染をゼロにするためのものではなく、緩やかな感染を促し、医療現場がパニックを起こさないためのものなのです。
ー経済ー
いよいよもって、ドイツとアメリカが動き始めます。
経済をまわすということは、止めていた人の動きを段階的であったとしても緩和させていくということです。
人と物の動きを鈍らせていることが、どれほど危険なことであるかを、世界中の人がわかっています。
どこでスタートを切るか。
タイミングは非常に難しいかもしれませんが、ある程度の犠牲は払いながらも推し進めることが必要であると判断しての動きのようです。
以前、私はこのように記事にしています。
ウイルスは共生していくものです。
ヒトよりも長い長い歴史のあるウイルスを、排除することはできません。
地球上で繁栄を極めている人間社会が、運のいいことにそれほどの致死率でない今回のウイルスを前に、いつまでも立ち往生しているわけにはいかないのです。
「感染」=「死」という図式に、いつまでも騙されていてはいけません。
経済がまわらなければ、それこそが人間社会の死になるからです。
感染は続きます。
死者もカウントされていきます。
でも感染が広まりきった今、これはこのコロナ禍以前のごく当たり前の状況と同じなのです。
これがもともと言われていたインフルエンザ化ということに合致していくのではないでしょうか。
3つのワードに分けて、現段階のコロナ禍を私なりに解説してみました。
潮目は変わってきたと感じています。
感染を封じ込めるということはできません。
でもそれをダイレクトに強調することも、これまではできませんでした。
そしていま。
わかっていた結果ではありますが、それに考えが及ばなかった多くの人々に、緩やかな感染と同じく、このコロナ禍のインフルエンザ化を浸透させていくことになりそうです。
このまわりくどいやり方は、誰の手法なのか。
おそらく、ウイルスにはない人間社会の知恵ということなのでしょうか。